ペンギン・ハイウェイが最高に面白かったのでそのことを伝えたい





観てきました。書店でアニメ化する皆と、そのPVを見たときから「きっと自分が好きそうな作品だな」と思っていて、映画公開日にたまたま行く機会があったので観てきました。

するとそれから3日連続、時間があれば映画館に足を運ぶことになり、原作である小説もずっと大興奮したまま読了。何でこんなに魅力的なのかと噛みしめながら、自分なら他人にこう伝えるという皆で書いておきます。


○映画版ペンギン・ハイウェイは今の時代におけるMOTHER1だった






「この作品ってどんなの?」と訊かれたら、僕はそう答えます。どういうことかと言うと、この作品にはニンテンがいて、アナがいて、ロイド、それからテディもいます。ニンテンの家族であるパパ(しかし電話ではない)とママもいるし、双子ではないですが、かわいい妹もいるのです。

そして、クイーンマリーもいます。

僕自身がMOTHERだなぁと思った一番の部分は、物語の終盤にあるため、ネタバレになってしまうのがなんとももどかしいですが、MOTHERファンの方には是非観てもらいたい。それだけで、この映画が好きになる魔法が掛かると思うんです。

他にもTwitterのTLで「謎が解けた瞬間がエイトメロディーズ」などといった考察もちらほら垣間見えて、僕はその度に嬉しくなりました。


○MOTHERを抜きにして語るなら



この映画はSF要素を持ちながらも、生と死をテーマにした純文学のような作品だと思います。生の世界と死の世界が、自分たちが生きているこの現世に共存している。"生きてるものも死んでいるし、死んでいるものも生きている。"ただ、それらは共存してはいけないものだとしている。

けれども、それは恐ろしいものではないんですよ、というのがこの映画だと思います。

何故"映画"だと表したかというと、小説だとその世界がもっと多様化していると仮説を立てられるからです。小説でアオヤマ仮説を唱えるように、これも僕が考えるユキナリ仮説、ということです。

なので、映画においては監督らが解釈したペンギン・ハイウェイ、ということになります。映画と小説、どちらが良いかと訊かれたら、僕は「どちらも大好きです」と答えます。

また映画のパンフレットに原作者のコメントにもあるのですが、作中とある人物がそのことに対して仮説を提唱していて、その仮説に「おおっ!」と僕はそのキャラにハグをしたい気持ちになりました。



ところで、主題歌となっている宇多田ヒカルさんの「Good Night」は、小説版でわりと出てくる台詞です。歌詞の内容もアオヤマ少年のお姉さんに対する気持ちが静かながらに真っ直ぐ伝わってきます。電車の中で聴くとすごく合うのでおすすめです。たまに、ほろりとします。


○そもそもMOTHER1だと感じた自分の中の共通点



MOTHER1、ペンギン・ハイウェイ。それら二つにおいて、自分が感じた共通点は、主人公=自分という式が、無意識のうちに成り立っていたことが一番大きな要因のようです。

小説版ではまさしく天才少年のアオヤマ君ですが、映画版ではどことなく背伸びをした、賢いながらも可愛らしい少年に見えて、それがより一層MOTHERに感じられた部分でもありそうです。身近になる部分があったからこそ、それが自分とシンクロしてくる。けどそれを見ている僕自身は「青年となった僕」なので、その差異がちょっと面白くも感じます。


○これからも謎解きは続く



この記事は4回目を観に行く電車の中で書いてます。誰かが言っていたのですが「課題というのは生きているうちずっと続くんだ」ということを言っていたような気がします。

アオヤマ少年の課題は青年になっても続くだろうし、それは同じく僕自身もそうであることです。その課題を見つけては幾度となく悩まされて苦しんで、解決しては喜んだり、たまに泣いたり悲しくなったりするんだろうと思います。

その課題の一つに、このペンギン・ハイウェイが加わりました。まだまだ考えたいことや感じたいことがたくさんあります。これからも僕は公開している間は観に行くだろうし、小説だって何度も読み返し、ブルーレイが出たら、真っ先に手に入れては何度も観ると思います。


「この謎を解いてごらん。どうだ。君にはできるか」


ほんとに、素敵な作品に出会いました。